@yanaaaaaaaahです。

演奏情報や日々のことを更新します。

たまには真面目なことも語る(今となってはよい想い出である)

これまで3回記事を投稿したが、その全てにおいて過去のことを語っていて、私って過去を振り返りすぎてない????!!!となったので今回は現在の話をしようと思う。

 

 

真面目に話すのは私の音楽の話である。

 

 

 

私は3歳からピアノを始めた。母氏はヴァイオリンを習わせる気だったらしいが、幼なじみのSくんに誘われてピアノを習った。

当時のピアノ教室は特に厳しさもなく、のほほんと楽しくゲンコツで鍵盤を叩いたりしていた。

 

でも家では母氏のスパルタピアノ指導があったのは今となってはよい想い出である。赤いキーボード。鍵盤のところにはアヒルのシールでド、レ、ミ・・・・と貼ってあるが今にも首がもげそうであった。

 

 

・・・・・・・・とまた過去のことを話しているが続ける。

 

幼なじみのSくんはメキメキ上達した。ピアノの教本もどんどん先へと行き、私はそれを追った。その競争心も今となってはよい想い出である。

 

 

 

 

さて、月日は流れひょんなことから小1で作曲の先生につき、レッスンを受けるようになった。私は幼稚園の年長から作曲を始めていたが(作曲をしなくてはいけないカリキュラムのコースにいた)初めて作った「猿のテーマ」をどうしても誰にも聞かれたくなくて、家でも恥ずかしくて弾くことが出来ず、母氏と大喧嘩したのも今となってはよい想い出である。

 

その作曲の先生は、私が作っていった意味のわからないテーマをその場でおしゃれに料理してくれた。黒鍵だらけのテーマも、意味の分からないコード進行の曲も。

 

 

どうしておしゃれになるんだろう、先生が弾くピアノは私と何が違うんだろう。

 

 

 

 

 

 

家の中では母はクラシック、父はジャズをときどき流していた。クラシックではそれこそベートーヴェンブルックナーラフマニノフも流れていた(今でも年末になると第九を流す母氏とプチ喧嘩をする)父はエバンスやチックコリア、タニアマリア、MCハマーとかも流していたっけ。Can't Touch Thisを空耳して唄っていたのも今となってはよい想い出である。

 

そのあたりから自分の和声感が乏しくておしゃれにならないんだろうと何となく察し始めた。聴く音楽はどれも自分の耳コピではわからなくて、きっと何かスパイスというか差があるんだろうな、と。

 

 

 

そんなとき作曲の先生からモーリス・ラヴェルをオススメされた。名前は聞いたことあるけれど、ちゃんと聞いたことはないな...とレッスンの帰り道に考えた記憶がある。「ソナチネ」は多分パッと聞いて好きになると思うけれど、「ラ・ヴァルス」は聞けば聞くほど味がでるさきイカみたいな曲だよ。何度も聞いてみなさい。と言われたのを今でも思い出す。

 

 

 

 

 

小学生の私「ねえ!ボレロって曲知ってる?あれ作ったのラヴェルって人なんだって!私ラヴェルって人が好きなんだけど、同じ作曲家があの有名な曲作ってるなんて知らなかった!!!!」

 

と友人に下校中得意げに話した記憶も鮮明に残っているが、当たり前に友人の顔は?????だった。ごめんりさちゃん。

 

 

私はラヴェルが大好きになった。ピアノの先生に無理を言って発表会で弾くくらいラヴェルのとりこになっていた。そのとき、新しい和声が見えた。

 

同時期に父氏からも「Giant Steps」を聞かされたっけ。かっこいい曲がたくさんある、私もそういうのを作りたい.....となった。

 

 

 

 

 

 

そのあたりから、1ついい和声を見つけるととりあえず半音ずつずらして「快☆感」となることに目覚めてしまった気がする。変態。とにかく多くの和声を知りたかった。知って自分のものにしたくて必死だった。今でも「快☆感」はよくやっている。変態。

 

小6でフランシス・プーランクに出会った。衝撃だった。これだ!!と思った。結婚相手が見つかったようだった。そのとき、私は作曲家になると決意したんだっけな....プーランクに出会っていなかったら私は今なにをしているかな...と思うほどである。

 

 

 

プーランクの楽譜を見て、好きな和声を見つけて、「快☆感」となった。それだけじゃ物足りず、プーランクの和声に音を追加していって、さらに新しい和声を見つけることにドキドキしていた。

 

 

 

そのあとも出会う曲出会う曲和声を調べてはおったまげて、ああああすごいなあとなった。

 

 

 

 

 

大学受験時、様々なCDを図書館で借りていたが、そのときにカプースチンに出会ったことも忘れない。やはり受験ではロマン派くらいまでのイメージの作品を書くため、近現代よりかはロマン派までの曲を多く借りていた。そこに紛れ込んだカプースチン。家に帰って1枚1枚聞いていたときの、えっえっ!!!!!!!!これは.......となったことは今となってはよい想い出である。気持ちとしては、本当は崇拝したいのにそれを隠すような、そんな気分だった。

 

 

 

 

大学に入学してから和声への思いがどんどん強くなって、(和声法への思いは強くなry)言葉に出来ない気持ちや胸をぎゅっとされるような思いや和声に人生を重ねてしまうことなど........変態が加速している。でも止められない.....困った.....私のまわりの人はきっとそんな姿をよく見ていると思うが、大丈夫だ、放っておいてくれればいい。

 

 

 

ということで私がやられる......和声の曲を貼って終わりにしようと思う。好き。えぐられる。

 

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憧れ続けた生徒会長と真面目に送ろうとした3年間

前回の日記で、私が生徒会長に憧れた件について触れた。

そんな私の中学時代の話をしようと思う。



ちなみに小4の頃、2週間ほど中学受験をしようと考えた時期があった。音楽コースがある私立中学をわりと近くに発見したからだ。

父氏はさっそく参考書を買ってきた。その名も「◻︎い頭を○くする」私はこのタイトルが読めず、「い頭をくする」と思っていた。今考えても本当に受験しなくて良かった…確実に落ちていた。




さて地元の公立中学に入学した私だが、中学はその時代上下関係が厳しく、ワンポイントがあるソックス(白色)やボタン付きのカーディガンは(以下略)、スカートの長さは言うまでもない……だった記憶がある。懐かしい。

そんな中学に、言われた通りワンポイントなしの白色ソックス、ボタンなしのベスト、第一ボタンまでとめたワイシャツ、スカートの長さはほぼ学年1長く、そしてメガネで入学した私は、中2で憧れだった生徒会長に立候補した。



小6から憧れをもっていた会長…。中1で生徒会副会長になり1年間の任期を終え、やはり次は会長しかない!となったのである。











しかし当時、生徒会室が大好きだった私は、お昼休みに食べ切らなかったお弁当を放課後生徒会室で食べるのが日常となっていた。時期は夏。












……生徒会長選挙前に食中毒になった。(O-157が有名だが、私がなったのはO-26だった)



あれは忘れない、挨拶運動も放送演説も会長立候補者が食中毒で参加しないこの恥ずかしさと恐ろしさと不安さ。

一方で、病院から突然電話がかかってきて、「よくない菌がでたので、すぐ病院にきてくれませんか?」と言われたあの恐怖…待ち構える保健所の方々…




半分腹痛のまま迎えた生徒会選挙をスンと終え、中3の途中まで生徒会長としてブイブイ言わせた。










そんな私も、中1のスキー教室(越後湯沢)ではホームシックになり、部屋で壁に向かって泣いた。

社会の時間に飛騨山脈と埋めないといけないプリントに「騨山山脈」と書いてゲンコツをくらった。

文化祭ではクラスの出し物でクイズヘキサゴンをやった。私は島田紳助役(MC)。決め言葉は「お書きください!」だった。


生徒会室からグラウンドを眺めながらする恋バナは青春だった。(友人の話を聞くだけ)






修学旅行で洋服を前後ろ反対に着た。(新横浜に着くまで気づかず)








そして高校受験のために中3から通った塾の近くにファミリーマートがあり、そこから私のファミチキ好きが始まるのである。(現在でもソウルフードとしてよく食べている)











真面目に過ごそうとした。だって生徒会役員だもの。




…と自分に言い聞かせすぎて、通学路にあるフジスーパーにちょうど母が買い物に来ていても、少しばかり寄ることに相当な罪悪感を感じるタイプに成長していた。


多分その反動が高校時代以降にきたんだと思う。









でも根はなんだかんだ真面目なのは、今でも多分変わってない。(自分で言ってしまった)


「これら1つ1つが人生の引き出し」

前回の日記で小学生時代のことを書いていたら思いが溢れてしまって押しつぶされそうになったのだけど、寝たらそれは一気に直ってて現実にスンと引き戻されていた。





しかしふと探し物をしていたら小学生の頃の写真を見つけてしまい、またグッと引き戻されたので続きを書こうと思う。






というのも、前回小6まで書き終わってアァいろいろあったなあとしみじみしていたけれど、出てきた写真は「ゴルゴ松本の真似をする小2の私」で、ちょっと待てよ…となったからである。


たしかに私は小1〜2の頃ゴルゴ松本をリスペクトしていて、体で文字を作るあの芸をことあるごとにやっていた。(「命」や「炎」など)

写真に写っていたのは忠実に再現する「心」という字だったが、隣には同じポーズをする友人も写っていた。












私はゴルゴ松本をリスペクトしていた。でも友人はどうだろうか。リスペクトしていなかったかもしれないし、もしかしたら「なぜこのようなことをやらされているのか」と思いながらも懸命に「心」の体文字をしていたのかもしれない。








思えば私はほんの数回見た「フルハウス」もリスペクトし、昼休みは空き教室で即興劇をしていたことを思い出す。とある友人と2人で、役柄だけを決めオチも特に決めず昼休みの時間いっぱいを劇に注ぎ込んだ。観客の笑いも劇の一部だ、なーんて思っていたっけ。



時には夫役をやったし、時にはファッションショーの日もあった。










私は「フルハウス」をリスペクトしていた。でも友人はどうだろうか。リスペクトしていなかったかもしれないし、もしかしたらそもそも昼休みは外で遊びたかったかもしれない。




でもそのような「表現する」ことは、例の小6の演劇クラブに生きたことになる。


公演名は「プーは語る」。これは冒頭の脚本である。未だに覚えてたことに驚いた。



登場人物A:プーは語る

登場人物B:プーは語る

登場人物C:語る、語る、いろいろ語る

プー(ここで満を辞して登場):楽しいことや悲しいこと、面白いことやドキッとすること

ローラン(全編裏声でこなした私の役):これら1つ1つが人生の引き出し







「これら1つ1つが人生の引き出し」









ゴルゴ松本をリスペクトして全力で体文字をしたことも、フルハウスをリスペクトして全力で即興劇をしたことも、隣の晩御飯をリスペクトして、祖父母の家に遊びに行くときはいらなくなったしゃもじを持ってピンポンしてたことも、中学の生徒会長を一目見てリスペクトして生徒会長になるんだと心に決めたことも、




「これら1つ1つが人生の引き出し」




ちなみに小2で作った曲の題名は「悲しいときにも誰かがいる」







……「これら1つ1つが人生の引き出し」……













真面目な話に戻ると、小6の頃にピアノの先生に言われた一言で人生が決まったと言っても過言ではなかった。


「あなた、曲を作るのは楽しそうね」



曲を作るの「は」楽しそうね



作るの「は」







漠然と卒業文集に将来の夢は「ピアノの先生」と書いていたが、心のうちとしては作曲家になりたいんだよなぁの気持ちで満たされていたんだと思う。



とか言いながら自作自演のコンサートでは、途中頭が真っ白になって左手がいなくなったり、冒頭から派手にスケールをミスったり、、したけどね♡







成人式のときに発掘したタイムカプセルには20歳の自分への手紙が入っていて、それによると、ラヴェル(作曲家)を猛烈に信仰していて、インパルスの板倉さんを愛していて、例の一発芸の脚本も出てきて、東京藝大に入っていますか?と問いかけがされていて、最後に一言



「彼氏はできていますか?うーん、出来てないだろうなあ、まあ誰かいたら素敵だね」





12歳の頃の自分よ、よくわかってる。



明日は本番だ、頑張ろう。

遂に始めてしまった。

勢い余ってこの深夜3時すぎにblogを始めてしまった。



というのもこの考えに至ったのはほんの数時間前のことで、いつものように(いやいつにも増して)怒涛の如く来月の本番用の編曲作業をしていたときに、ふと思い出されたことがきっかけとなる。

まあ簡単に言えば、見知らぬ人に「ホームページはないのですか?」と聞かれ、「アッ…ホームページは開設していなくて、、Facebookの方に申請頂けたらと…思います…」の返事に、「Facebookはやっていないんだよね、、」を頂いてしまったのだ。






…これは実はよくあることだ。


確かにまわりの友人などは公式ホームページを開設していたり、公式blogがあったり、Facebookページがあったりする。でも私の場合は「Facebookにメッセージを添えて申請頂けたらと…」を繰り返しまくっている。


Facebookに登録していない人とは交流出来なくなってまうじゃないか…








突然襲われた罪悪感や孤独感(ちなみにそのとき作業していた曲は思いっきり短調だった)に苛まれ、大学の学部4年間休まずmixi日記を書き続けたことを思い出し、アァblogでも開設するか…となったのでござんす。




さて、初回なので簡単に自己紹介をする。というのも、(というのも、という文頭が好きだと気付いた)初めて読んだ方々にとっては、「誰からいつ公式ホームページうんぬんの話をされるんだ?」となりえると思ったのと、26年間のこれまでの人生を整理したかったからだ。


拙者は横浜生まれ横浜育ちの26歳♀。小さい頃はよく顔から転ぶタイプで、それは中学の頃バスケの試合中顔でボールを受けたことに通じるところがあるな、と思っている。

3歳の頃、幼馴染に誘われたピアノ教室が私の人生を決めたようなもんで、それから今まで音楽を続けている。しかしリズム感は本当に皆無だった、そう語るのは、小学生の私にコルトレーンの「Giant Steps」を聞かせ、「何調に聞こえる?」とクイズを出してきた父氏である。



音楽教室では大きな蜘蛛を素手で捕まえる先生や、小学生でハーリヤーノシュをエレクトーンで弾かせてくれた先生と出会って、数多くの曲を知り厳しいレッスンも受けた。昔は本当に泣き虫だった。泣いて吐きそうになったし、本番前もトイレにダッシュするタイプだった。


私生活では小4で演劇クラブに入り、大きなダウンを着てなるべく体格をよくしながらロボット役をこなした。なぜこのようなキャラクター設定になったか覚えていないが、私の脚本なので文句は言えない。


小5で演劇クラブがなくなり、パソコンクラブに入った。そのときに気になることをyahoo!で検索するだけで、1年間は終わった。


小6で演劇クラブを新設し、全編裏声で話すローラン役をこなした。なぜこのようなキャラクター設定になったか覚えていないが、私の脚本なので文句は言えない。また「猛獣狩り」(任意の単語を出題し、その字数に合わせてグループを作り、グループが組めなかった人が負けというなんとも怖いゲーム)というゲームが流行り、お楽しみ会でやる際は出題側に回ったが「トトロ」「トロロ」という単語を連続して思いつき、当時はそれがお腹がつるほど面白く、廊下で笑い転げてた記憶もある。今では何がそんなに面白かったか理解出来ない。

今の私を知る人からしてみれば想像がつかない部分でもあるが、「一発芸」も常連であった。といっても私の場合一発ではなく、きちんと脚本を書いてメンバーを集め、わりと本気で練習した。休み時間も放課後も。そして本番が終わると反省会もした。議題は「なぜ笑ってくれなかったか」その姿に担任は「一生懸命やることが大事だよ」と謎の慰めをしてくれたのもよく覚えている。


しかしここで私らしさが形成されることが起こった。一応その案件が起こる前から私は運営委員会(児童会みたいなもの)委員長、運動会実行委員長の役職についていたが、小学校に中学の生徒会役員が乗り込んできたのだ。

生徒会役員は、中学ってこんなところだよ!と目をキラキラさせながら私たちに話してくる。そして生徒会長が♀で、とにかくかっこよかったのだ。あの衝撃は忘れない…私は生徒会長になる……と気持ちを固めた瞬間だった。




書いていると思いが溢れてくるのがblogのいいところであり怖さでもある。

自己紹介の続きはまた今度にしようと思う。