@yanaaaaaaaahです。

演奏情報や日々のことを更新します。

少し書いてみようと思う。

ようやく一大プロジェクトの終わりが見えてきた。気がつけば1ヶ月以上取り組んでいた。授業、授業の準備、レッスン、レッスンの準備以外の時間は全て費やした。でも心中穏やかではないままだった。少しTwitterにはもらしたものの、本気でつらかった。それは仕事自体がきつかったのももちろんあるものの、それに勝ってつらいことが起きていたからだ。穏やかな気持ちで取り組んでいたら、また違ったものが出来ていたのかもしれないなあと思うと、神様はなぜこの時期を選んだんだ、と思ってしまう。



春休みの3月、コロナ禍で目立った仕事はなく、この休み期間を利用していろいろな勉強をしようとしていた。あと教材の整理もして、気持ちよく新年度を迎えようとしていた。


たしか教材の整理がひと段落ついて、あまり習慣がない《読書》というものを始め、4日後に迫る父の誕生日ケーキを予約し、穏やかに眠りについたのを覚えている。3/15のことだ。


春休みもダラダラしないように、8:30までには起きようとアラームを設定していた。でも3/16は7時過ぎになんとなく目が覚めて、携帯をいじっていた。


家の電話が鳴っている音がした。でも、ワン切りの場合もあるし、同じマンションに住む祖母が父からの朝のLINEがないと『コロナになったわけじゃないわよね?』と朝イチに家に電話をかけてくることもあった。どうせどちらかだろう、なんて気楽に考えていた。


電話が鳴り止み、ものすごい足音とともに母が私の部屋に飛び込んできた。祖母が気分が悪いと電話してきた。いつもと様子がおかしい、すぐ行くからついてきて、と。


そこからの様子はあまりに生々しい。その電話から10分も経たずに祖母の家に飛び込んだけれど、そこには動かなくなった祖母がいた。

初めて119に電話をし、言われた通りに心臓マッサージを行った。母との連携は凄まじかった。防護服を着た救急隊員は5人以上来た。ものすごい勢いだった。あっという間に祖母は救急車に連れていかれた。

朝の8時。思いっきり通勤通学の時間だ。マンションの前に止まる救急車とハシゴ車に、住民は騒然としていた。救急車には母しか乗れず、私は搬送された病院にタクシーで向かった。




この一年、人工透析を行う祖母に何かあってはいけない、と仕事をたくさんキャンセルした。

それでもどうしても外に出ないといけないことはあって、なるべく祖母に会わないようにした。

いつもなら大晦日や元旦は祖母の家でご飯を食べるけれど、それもなしにした。時々携帯の調子が悪いから見に来て、と言われ5分くらい行くだけにとどめていた。


コロナが収束したら、またご飯食べにいかれるかな。私も30歳になるわけだし、そろそろ結婚相手です、なんて祖母に紹介したらものすごい嬉しがるだろうな。4人のうち3人の祖父母は亡くなっているし、祖母くらい結婚式に呼べたらいいな。なんて考えていたんだけどな。


本当に一瞬。だって、朝父と普通にLINEしてたんだよ。10分前はうちに電話ができたんだよ。洗濯物干し途中だったんだよ。たくさんご飯炊いたままだよ。


こんなことってあるかなあ。今でもあの日のことが忘れられない。


そして、あんなに一瞬のことが起きるのなら、母や父は大丈夫なのかな。自分も大丈夫なのかな。心配で怖くて眠れない。





スッと逝ってしまった。仕事がない日は毎日祖母の家に行ってお線香をあげているけれど、未だに祖母の家の匂いを感じるとあの日を思い出すし、苦しい。










そんな中で新年度が始まった。今年も授業7コマとレッスン生6人と楽しくやらなくては。

一大プロジェクトだって、きちんと取り組まなければ。




でもやればやるほど自分の音楽的な自信がえぐられていく。つらい。かなしい。




こんな1ヶ月になるなんて、春休みには想像もしていなかった。


いつになったら少し元気になれるかな。なりたいな。安心して寝たいな。ふと泣いちゃうようなことがなくなるといいな。